いつもの事だけど、どんどん体験が過ぎていく。ニサルガダッタ・マハラジの次はラメッシ・バルセカール。
ニサルガダッタ・マハラジの時もそうだけど、私は古い方に重きを置いていたんだよね。
でも、ラメッシ・バルセカールの言葉の朗読をしている人の動画を見て、ニサルガダッタ・マハラジより更に私が感じていた本質に近くて、そういう思い込みのフィルターで見るのは止めようと気付けた。
ラマナ・マハルシの言う「私は誰か?」は私にはピンと来ない言葉で、自分にはどんな言葉がしっくりくるか色々試してみてた。
でも、ニサルガダッタ・マハラジの「私は在る」の言葉を内側に感じたら、内側が喜んでいる感じがした。
正にこの言葉を待っていたみたいな。
そして、今度はラメッシ・バルセカール。
ラメッシ・バルセカールの「苦しみがある」と言う言葉で、4歳の時の私を思い出した。
自分の心の傷に向き合おう、感情を開放しようと、4歳の時に傷付いたであろうある出来事に向き合っていた。
何回やっても、どうしても感情が分からない。
そんなにフリーズしてしまったんだろうか?
でもある日やっと浮き出てきた。
それは、「苦しみがある」「悲しみがある」だった。
私は、きっと4歳のあの出来事で、ショックで意識が飛び出しちゃったんじゃないかと感じてた。
やっぱりそうだった。
あの出来事の時は、まだ「自分の感情」と言う意識ではなくて、正しく生きられていたんだなぁと。
今でも、深いところでは神意識を感じてるのは最近気付いてた。
元に戻ろう。